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Vol.13 果たせなかった夢

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  月に一回、いではくが飲み屋さんへ行って軽く酒とつまみをやりながらテーマに沿った話をする「酒と話」。今回はホテルグランドアーク半蔵門の4Fにあるラウンジ「ラメール」にて『果たせなかった夢』について語ってもらいました! 学生時代の夢  学生時代は山登りばっかりやってたから、登山仲間と将来的にはエベレストに登るか、それともランドクルーザーみたいな車を買って、それでアジアから陸路を通ってアフリカのキリマンジャロを登りに行くかと、というのが学生時代というか若い時の夢だった。  ただまぁ、結局は夢は夢で終わったけどね(笑)。  というのは、卒業したら早く100万ずつ貯めて、4人で400万くらいの資金を作って海外へ山登りに行こうか!なんてことを言ってたけど、やっぱり仲間4人がバラバラにサラリーマンになって、なかなかね、100万貯めるってのは現実では難しかったねぇ。当時2万いくらの給料だからね。まぁ俺は兄貴の所に居候*してたから比較的楽に貯まったんだけど。ただ、みんなと足並みはなかなか揃わないからね。夢は夢で終わっちまったねぇ、と。  だからその反動というか、70歳過ぎた時にね、まぁエベレストは及びもつかないけど、少なくとも富士山よりも高い山に登りたいな、と思って、ボルネオ島にあるキナバル山*(4,095 m)に登ったんだけどね。  それとか、キリマンジャロなら(今の年齢でも)チャンスはあるかもしれないけど、エベレストはとても無理だね。  エベレスト登頂は登山家の夢だから。それでも学生時代に登った山の中でも、厳冬期の南アルプス全山縦走なんかは何日もかかって結構キツかったけど、何とかやり遂げたからね。今、NHKのBSで日本海から太平洋まで3大アルプスを縦断する大会みたいなことをやってる番組があるんだけど、あれ見てると俺らも登った山ばっかりだから、感慨深いものがあるよ。  今になってみると何であんなに山好きだったんだか訳わかんないんだけどね(笑)。勢いだったのかなぁ(笑)。まぁそりゃ山小屋で学生時代にアルバイトをしてた事もあるし、長野県の生まれだからね、中学2年の時に学校行事として八ヶ岳登山ってのがあって、2,800mちょっとある赤岳に登るんだから。山が身近だったってのが大きいかな。  都会の子供たちにはなかなか難しいだろうけど、やっぱり長野県の子供...

Vol.12 中国と「北国の春」

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  月に一回、いではくが飲み屋さんへ行って軽く酒とつまみをやりながらテーマに沿った話をする「酒と話」。第12回は西荻窪にある、魚と野菜料理の店「海のぼん」で『中国と"北国の春"』について語ってもらいました! 1977年に発売された"北国の春"(歌:千昌夫  作詞:いではく  作曲:遠藤実)。日本でのヒットのみならず、中国をはじめモンゴル、タイなどアジア圏でも大ヒットし、一説によると15億人以上に愛唱されているという。 中国での"北国の春"  "北国の春"は中国語バージョンになって海外で歌われているんだけど、俺が把握してるだけで5、6パターンある。  最初に言っておくと、向こうでは色々な内容の歌詞で歌われているんだけど、それについて俺は全く関与していない。  やっぱり一番ポピュラーなのは北京を中心に流行った"北国の春"の直訳「北国之春」なんだろうけど、最初に流行り始めたのはもうちょっと前、テレサ・テンさんが歌った「我和你(訳:私とあなた)」。中国大陸の南の方で流行り始めてた。当時、鄧小平が中国のトップだったんだけど、鄧小平は"大きい鄧"、テレサ・テンは"小さい鄧"ということで、大鄧と小鄧なんて言われてた。(注:テレサ・テンの中華圏での名前は鄧麗君) 鄧小平が率いる軍隊でテレサ・テンが歌うラブソング「我和你」が流行ったことで軍隊の士気にも影響が出たことから、「小鄧が大鄧を食った!」なんて皮肉的な記事が新聞に出るくらい人気があった。  一方で、さっき言った北京から北の方は直訳バージョン、要するに故郷を想う歌詞で人気を得た。というのも東京に働きに上京した人たちが"北国の春"を支持したように、やっぱり中国でも北京に働きに出て来ている吉林省とか、中国北部から来ている人たちにとっては望郷の歌だったんだと思う。そんな人たちに支持された。だからあの大きい大陸で"北国の春"は、2分するような流行り方をしたわけ。  直訳バージョンは蒋大為(ジャン・ダーウェイ)さんが歌った。この人は中国の民謡歌手というか古典をやっているような歌い手らしい。俺も一回会ったことはあるんだけど。  それから上の2つ...

Vol.11 特別企画 俺のゴルフクラブ・セッティング

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  月に一回、いではくが飲み屋さんへ行って軽く酒とつまみをやりながらテーマに沿った話をする「酒と話」ですが、今回は年末特別企画として、いではくのゴルフクラブ・セッティングを披露してもらいました! ゴルフ歴50年以上、エージシュートは5回、年間50ラウンド以上を回り、過去には一人で本場スコットランドへ行き地元民とプレーするほどのゴルフ狂。 現在、クラブセットは2組あって、1つは遠征用、もう1つはホームコースのロッカーに在中。全く同じではないが、ほぼ同じようなもので組み合わせている。 昔と変わったクラブセッティング  セッティングを変えた一番の理由は、パワーが落ちて飛距離が少しずつ落ちてきたから。体力がダメなら道具の進化に頼るしかない(笑)  それで最初に変えたのが、ドライバー。シャフトを柔らかくして、しなりでヘッドを走らせる、先調子のシャフトにカスタムした。  それから、だんだんアイアンが打てなくなってきた。というのもアイアンの打ち方はボールの先のターフを削るくらい打ち込んでってボールにスピンをかけたりするんだけども、だんだん打ち込んで球を飛ばすという打ち方がしんどくなってきた。どうしてもウッド系の"払って打つ"という打ち方になってきたんで、アイアンの本数が減っていって、その代わりにユーティリティーに頼るようになった。で、今年から「この際、アイアンは全部やめるか!」ということになって、アイアンはアプローチ兼サンドウェッジの1本だけにして、9番アイアンくらいの距離は全部ユーティリティーに変えたの。  そんなこともあって、本数もだんだん少なくなってきて、昔は14本だったけどアレも抜き、コレもいらないでだいたい10本くらいになった。今はその本数でプレーしているけど、全く問題はない。  14本持ってた頃も1日のラウンドの中で使わないクラブは2本くらいあったし、そういうのを抜いていって今の形になったんだけど、プレーにもスコアにも影響ないね。 ドライバー   若い時には250ヤードくらい飛んでたのがだんだん落ちてきて、フォローの風とか、たまに条件が良ければ200ydくらい飛ぶ時もあるけど、今は平均180ydくらい。  さっき言ったみたいに、シャフトが柔らかいカスタムドライバー。ヘッドは昔のクラブでKAMUIの450cc。シャフトはバシレウス シャフト...

Vol.10 競馬

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  月に一回、いではくが飲み屋さんへ行って軽く酒とつまみをやりながらテーマに沿った話をする「酒と話」。第10回は第4回でお世話になった「Osteria Bar the Passion」で趣味の一つである『競馬』について語ってもらいました! 初競馬  モーターボート競走会*の職員で競馬好きがいて、その人に一緒にやろうよって誘われてて、後楽園か渋谷の場外馬券場に行ったこともあったんだけど、初めて馬券を買ったのは1966年のダービー。今でも優勝馬の名前を覚えてるよ。  あん時は今みたいに出走馬が最大18頭なんてことがなくて28頭出てたんだよ。考えられないだろ?(笑)だから一枠に3頭ずつ入って、尚且つ外の6、7、8枠は4頭入ってたはず。それで枠番3と7がきて5,000円くらい配当がついた。その年は春のG1、皐月賞かオークスだったか忘れたけど、そこでも3−7だったんで、「今年は"3-7"がくる年なのかなぁ」と思って、安田記念で3−7を洒落で買ったら、大当たり。8,800円の配当で500円買ってたから、44,000円になった。あの頃の給料が1ヶ月27,000円くらいだったから、給料2ヶ月分近い金が突然入ったんで、即行友達たち連れて、うまいもん食って、キャバレー行ったりして一晩で使い切った(笑)  ダービーは外したけど一発目で面白いなと思った。そうは言っても昔は携帯で買うとかもちろんないし、仕事柄地方に行くことも多かったから、今みたいに毎週はやってなかった。G1をやる程度だったね、最初は。  地方に行ってたって言えば、昔、仕事で地方に行くから当日買えないんで、前売りで買った馬券を東京に戻ってレース結果調べたら「当たってるぞ!」ってなってね。馬連で5万いくらかついて、それを1,000円分持ってたから50万以上になって、その金使って家族でオーストラリアへ旅行に行った、なんてこともあったね。 昔と今の競馬  まず単純に馬券の種類が増えたよね。昔は単勝、複勝、枠連しかなかったけど、今はワイドや3連複、3連単なんかも出てきて、よりギャンブル性も高くなってきた。少額でも夢が見られるって意味では良い時代になったなぁと思う。3連単なんか100円でも何百万になることもあるからね。  それから、昔は天皇賞とか有馬記念とか長い距離を勝つ馬が良い馬だってのがあったか...

Vol.09 音楽作家から見た音楽出版社の問題点(後編)

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  月に一回、いではくが飲み屋さんへ行って軽く酒とつまみをやりながらテーマに沿った話をする「酒と話」。第9回は、前回に続いて『音楽作家から見た音楽出版社の問題点(後編)』です! 「音楽出版社」とは、音楽著作物の管理・プロモーションなどを行う事業者である。 通常、メジャー流通でリリースされた楽曲に関しては、作家(作詞家、作曲家)と音楽出版社との間で契約(著作権譲渡契約)が締結される。 音楽出版社は、窓口業務として、作家と契約した楽曲の管理・プロモーションを行い、得られた著作権使用料から契約で取り決めた比率に従って、印税として作詞家、作曲家に分配する。 例えば、契約の分配比率が音楽出版33%、作詞家33%、作曲家33%の場合、著作権使用料が99円であれば、音楽出版社の取り分33円を差し引き、作詞家に33円、作曲家に33円が分配される。 現在、日本にはレコード会社系列、芸能プロダクション系列、放送局系列とさまざまな音楽出版社*がある。 契約期間  (前回取り上げた著作権印税の分配率の問題*に加えて)もう一つ問題なのは、当時の統一契約書は著作権の契約期限が「著作権存続期間中」、つまり著作権が切れるまで、未来永劫契約は変わらない、途中で打ち切れない、そういう契約書しかなかった。だから俺のいくつかの作品も実際、今でもそういう状態になってて、だけどこれは非常に理不尽な話なわけ。本来なら音楽出版社が契約した作品を利用開発する(売る)ためにプロモート費用として取ってるはずのパーセンテージが、そういう活動を全くしなくなったのにも関わらず、契約通りの33%なり50%を取ってる。これは大問題だろうと。要するに契約書に謳われている労力、仕事をしないのにも関わらず印税だけは取ってくっていうのはおかしい。だからこれは何とかしないといけない問題だと思う。自分自身だけじゃなくて全作家ために。  だからこの2つだね、作家側からした音楽出版社の問題点は。契約期間の問題と取り分(パーセンテージ)の問題。  ちなみに取り分の問題は、作家自身も考えなくてはいけない問題で、大変だろうけど契約時に音楽出版社に対して自己主張をしてかないとダメだと思う。 変えられない契約  もちろん契約を変えてくれって掛け合ったことは何度もあるけど結局は相手との話し合いだから、相手が「いや契約書は有効だから」と話...

Vol.08 音楽作家から見た音楽出版社の問題点(前編)

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  月に一回、いではくが飲み屋さんへ行って軽く酒とつまみをやりながらテーマに沿った話をする「酒と話」。第8回は赤坂にある小料理屋「お晩菜  ごんた」で『音楽作家から見た音楽出版社の問題点』について聞きました! 前後編に分けてお送りします。 「音楽出版社」とは、音楽著作物の管理・プロモーションなどを行う事業者である。 通常、メジャー流通でリリースされた楽曲に関しては、作家(作詞家、作曲家)と音楽出版社との間で契約(著作権譲渡契約)が締結される。 音楽出版社は、窓口業務として、作家と契約した楽曲の管理・プロモーションを行い、得られた著作権使用料から契約で取り決めた比率に従って、印税として作詞家、作曲家に分配する。 例えば、契約の分配比率が音楽出版33%、作詞家33%、作曲家33%の場合、著作権使用料が99円であれば、音楽出版社の取り分33円を差し引き、作詞家に33円、作曲家に33円が分配される。 現在、日本にはレコード会社系列、芸能プロダクション系列、放送局系列とさまざまな音楽出版社*がある。 印税の分配率  終戦後、アメリカのシステムを当時の渡辺プロがいち早く目をつけて、日本に導入したのが日本における音楽出版の始まりだったと思う。  それまではレコード会社が専属作家制をとっていたんで、レコード会社は作家と直接契約してて、プロモーションとかも全部レコード会社自ら行っていたの。専属だから他のレコード会社と仕事はできないんだけど、レコード1枚売れたら、⚪︎円払います、みたいな契約をレコード会社と作家でしてた。  そんな中、初めて渡辺プロが、フリーの作家の「楽曲」を預かって、それをプロモーションをする音楽出版部門というのを立ち上げた。音楽出版はプロモーション費用として作家の著作権印税の何割かをもらう、という新しいシステムを作ったの。つまり作家と契約するんじゃなくて、作家の作った曲と契約するシステムを作ったわけ。  ってことで、音楽出版ができてからは、著作権印税を作詞家、作曲家、音楽出版社の3者で分けるようになった。そうすると音楽出版社が歌を売るためにどのくらい尽力してくれるかなんかによって印税の取り分のパーセンテージの割合が変わってくる。結果、力のない新人の作家はプロモーション費用がかかるからという理由で取り分が少ない場合も多かった。...