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Vol.01 大学時代から作詞家になる決心をするまで

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月に一回、いではくのお気に入りの飲み屋さんへ行って、軽く酒とつまみをやりながらテーマに沿った話をする「酒と話」。第1回目は荻窪にある行きつけの飲み屋さん「寄港地」にて『大学時代から作詞家になる決心をするまで』の話です! 大学時代  大学生といっても山岳会*にいたから山でほとんど生活していた。夏は2ヶ月間、黒百合ヒュッテ*でアルバイトを毎年していたし、そのほか冬山もやってたから年間200日くらいは山にいた。学校に行けば授業に出るより麻雀屋にいる方が多かったし、まぁロクな学生じゃなかった。ほとんど勉強してないしね。本当は将来新聞記者になりたいと思って早稲田(大学)に入学したけど、結局在学中に新聞社に受かるような勉強は全然しなかったし、もう3、4年生の時には無理だなぁって思ってた。 この日のオススメ「牛すじの煮込み(税込748円)」。スライス バゲット付き。 就職  山やってた仲間たちと「卒業して社会人になっても山は続けていこう」とは話してたんで、将来的には冒険家みたいなものになってヒマラヤとかランドクルーザーみたいな車を買ってアジアから陸路でアフリカへ行ってキリマンジャロを登りたいみたいな話をしてた。だからとりあえず給料の高いところに就職しようと思って、学内の求人欄で一番給料の高い会社を探してた。その中に全国モーターボート競走会連合会*というのがあって、当時(1965年)の平均初任給が2万円のところ、2万5千円くらいもらえたから試験受けて入れたって感じで、ホントお金のためだけに入ったようなもん。 生中(490円)。キンキンに冷やしたジョッキで出してくれます。 サラリーマン  上京してからずっと兄貴の家に居候で食費だけを入れればよかったんで、その間にせっせと冒険資金を貯めていた。当時、競走会連合会は選手養成のため全国の競走場を渡り歩いていた。ホテルに泊まるための宿泊代とかも支給されたんだけど、選手宿舎に泊まると飯付きで500円で済んだから、当然そっちに泊まってた。そうすると出張費がほとんど丸々残る。月に1回か2回の出張に行けば、その浮いた出張費を兄貴の家に入れる食費に当てたので、給料丸々が貯金できた。だから4年くらいで100万円貯めた。だから山仲間たちも同じように貯めてれば、そこそこの遠征費になったんだけど、やっぱりみんな社会人になれば、それぞれ事情があってそこまで貯めら