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Vol.02 初ヒットが出るまで

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  月に一回、いではくのお気に入りの飲み屋さんへ行って、軽く酒とつまみをやりながらテーマに沿った話をする「酒と話」。第2回は都合により、いではくの自宅で奥さんの手料理をいただきながら『初ヒットが出るまで』の話を聞きました!  初ヒット曲は 1976 年 10 月 1 日発売の「すきま風 * 」で、その曲が本格的に売れ始めたのは 1977 年だから 36 歳の時。 29 歳で遠藤 ( 実 ) 先生の秘書になってからヒットが出るまで約7年かかった。 作詞家になりたての頃  秘書になったばかりの頃は阿佐ヶ谷のアパートにいて単車で遠藤先生のところに通ってた。詩もぼちぼち書き始めてたんだけど、遠藤先生に「ごく普通の、いわゆる先輩たちが書いているような歌謡曲や演歌を書いていたんではなかなか君の出番はないんじゃなの」と言われて、そういう歌じゃない、当時流行り始めたフォークっぽい感じの詩を主に書いていた。後にレコードになったけど「青春譜 * 」なんかはその当時書いた詩。  一番最初にメジャーのレコード会社から出たシングル・レコードは 1973 年 (32 歳 ) 、一節太郎さんが歌った「親子流し唄 * 」だった。それが 32 歳の時。太郎さんがデビューして 10 周年になるんでその記念曲を作ろうという企画が出て、それで「浪曲子守唄 * 」の親子がそれから 10 年経った歌を作ることになった。それで、親子で演歌師をしながら ... というような詩を書いた。その前にも小林旭さんの LP の中の歌とかいくつか書かせてもらってはいたけど、まぁそんなに簡単にヒット曲は出ないよなぁっという気持ちはあった。 巨大マッシュルームの肉詰めとケチャップ ソース 結婚  1975 年に結婚して、住まいは遠藤先生の奥さんが持っていたマンションに住ませてもらっていたから、家賃は全然かからなかったけど、 ( 秘書としての ) 給料は安かったからねぇ ( 笑 ) 。だから ( 夫婦で ) 金銭的にちょっとしんどい思いをしたってのは2年弱くらいあったかな。 結婚もしてすぐはヒット曲が出ず苦しい思いをしたけど、いずれ必ずチャンスは来ると思ってたから作詞家を諦めるという気持ちは全くなかった。やっぱりそん