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Vol.11 特別企画 俺のゴルフクラブ・セッティング

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  酒と話 Vol.11「特別企画」 月に一回、いではくが飲み屋さんへ行って軽く酒とつまみをやりながらテーマに沿った話をする「酒と話」ですが、今回は年末特別企画として、いではくのゴルフクラブ・セッティングを披露してもらいました! ゴルフ歴50年以上、エージシュートは5回、年間50ラウンド以上を回り、過去には一人で本場スコットランドへ行き地元民とプレーするほどのゴルフ狂。 現在、クラブセットは2組あって、1つは遠征用、もう1つはホームコースのロッカーに在中。全く同じではないが、ほぼ同じようなもので組み合わせている。 昔と変わったクラブセッティング  セッティングを変えた一番の理由は、パワーが落ちて飛距離が少しずつ落ちてきたから。体力がダメなら道具の進化に頼るしかない(笑)  それで最初に変えたのが、ドライバー。シャフトを柔らかくして、しなりでヘッドを走らせる、先調子のシャフトにカスタムした。  それから、だんだんアイアンが打てなくなってきた。というのもアイアンの打ち方はボールの先のターフを削るくらい打ち込んでってボールにスピンをかけたりするんだけども、だんだん打ち込んで球を飛ばすという打ち方がしんどくなってきた。どうしてもウッド系の"払って打つ"という打ち方になってきたんで、アイアンの本数が減っていって、その代わりにユーティリティーに頼るようになった。で、今年から「この際、アイアンは全部やめるか!」ということになって、アイアンはアプローチ兼サンドウェッジの1本だけにして、9番アイアンくらいの距離は全部ユーティリティーに変えたの。  そんなこともあって、本数もだんだん少なくなってきて、昔は14本だったけどアレも抜き、コレもいらないでだいたい10本くらいになった。今はその本数でプレーしているけど、全く問題はない。  14本持ってた頃も1日のラウンドの中で使わないクラブは2本くらいあったし、そういうのを抜いていって今の形になったんだけど、プレーにもスコアにも影響ないね。 ドライバー   若い時には250ヤードくらい飛んでたのがだんだん落ちてきて、フォローの風とか、たまに条件が良ければ200ydくらい飛ぶ時もあるけど、今は平均180ydくらい。  さっき言ったみたいに、シャフトが柔らかいカスタムドライバー。ヘッドは昔のクラブでKAMUIの450c...

Vol.10 競馬

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  酒と話 Vol.10「競馬」 月に一回、いではくが飲み屋さんへ行って軽く酒とつまみをやりながらテーマに沿った話をする「酒と話」。第10回は第4回でお世話になった「Osteria Bar the Passion」で趣味の一つである『競馬』について語ってもらいました! 初競馬  モーターボート競走会*の職員で競馬好きがいて、その人に一緒にやろうよって誘われてて、後楽園か渋谷の場外馬券場に行ったこともあったんだけど、初めて馬券を買ったのは1966年のダービー。今でも優勝馬の名前を覚えてるよ。  あん時は今みたいに出走馬が最大18頭なんてことがなくて28頭出てたんだよ。考えられないだろ?(笑)だから一枠に3頭ずつ入って、尚且つ外の6、7、8枠は4頭入ってたはず。それで枠番3と7がきて5,000円くらい配当がついた。その年は春のG1、皐月賞かオークスだったか忘れたけど、そこでも3−7だったんで、「今年は"3-7"がくる年なのかなぁ」と思って、安田記念で3−7を洒落で買ったら、大当たり。8,800円の配当で500円買ってたから、44,000円になった。あの頃の給料が1ヶ月27,000円くらいだったから、給料2ヶ月分近い金が突然入ったんで、即行友達たち連れて、うまいもん食って、キャバレー行ったりして一晩で使い切った(笑)  ダービーは外したけど一発目で面白いなと思った。そうは言っても昔は携帯で買うとかもちろんないし、仕事柄地方に行くことも多かったから、今みたいに毎週はやってなかった。G1をやる程度だったね、最初は。  地方に行ってたって言えば、昔、仕事で地方に行くから当日買えないんで、前売りで買った馬券を東京に戻ってレース結果調べたら「当たってるぞ!」ってなってね。馬連で5万いくらかついて、それを1,000円分持ってたから50万以上になって、その金使って家族でオーストラリアへ旅行に行った、なんてこともあったね。 昔と今の競馬  まず単純に馬券の種類が増えたよね。昔は単勝、複勝、枠連しかなかったけど、今はワイドや3連複、3連単なんかも出てきて、よりギャンブル性も高くなってきた。少額でも夢が見られるって意味では良い時代になったなぁと思う。3連単なんか100円でも何百万になることもあるからね。  それから、昔は天皇賞とか有馬記念とか長い距離を勝...

Vol.09 音楽作家から見た音楽出版社の問題点(後編)

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  酒と話 Vol.09「音楽作家から見た音楽出版社の問題点(後編)」 月に一回、いではくが飲み屋さんへ行って軽く酒とつまみをやりながらテーマに沿った話をする「酒と話」。第9回は、前回に続いて『音楽作家から見た音楽出版社の問題点(後編)』です! 「音楽出版社」とは、音楽著作物の管理・プロモーションなどを行う事業者である。 通常、メジャー流通でリリースされた楽曲に関しては、作家(作詞家、作曲家)と音楽出版社との間で契約(著作権譲渡契約)が締結される。 音楽出版社は、窓口業務として、作家と契約した楽曲の管理・プロモーションを行い、得られた著作権使用料から契約で取り決めた比率に従って、印税として作詞家、作曲家に分配する。 例えば、契約の分配比率が音楽出版33%、作詞家33%、作曲家33%の場合、著作権使用料が99円であれば、音楽出版社の取り分33円を差し引き、作詞家に33円、作曲家に33円が分配される。 現在、日本にはレコード会社系列、芸能プロダクション系列、放送局系列とさまざまな音楽出版社*がある。 契約期間  (前回取り上げた著作権印税の分配率の問題*に加えて)もう一つ問題なのは、当時の統一契約書は著作権の契約期限が「著作権存続期間中」、つまり著作権が切れるまで、未来永劫契約は変わらない、途中で打ち切れない、そういう契約書しかなかった。だから俺のいくつかの作品も実際、今でもそういう状態になってて、だけどこれは非常に理不尽な話なわけ。本来なら音楽出版社が契約した作品を利用開発する(売る)ためにプロモート費用として取ってるはずのパーセンテージが、そういう活動を全くしなくなったのにも関わらず、契約通りの33%なり50%を取ってる。これは大問題だろうと。要するに契約書に謳われている労力、仕事をしないのにも関わらず印税だけは取ってくっていうのはおかしい。だからこれは何とかしないといけない問題だと思う。自分自身だけじゃなくて全作家ために。  だからこの2つだね、作家側からした音楽出版社の問題点は。契約期間の問題と取り分(パーセンテージ)の問題。  ちなみに取り分の問題は、作家自身も考えなくてはいけない問題で、大変だろうけど契約時に音楽出版社に対して自己主張をしてかないとダメだと思う。 変えられない契約  もちろん契約を変えてくれって掛け合ったことは何度もあるけ...

Vol.08 音楽作家から見た音楽出版社の問題点(前編)

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  酒と話 Vol.08「音楽作家から見た音楽出版社の問題点(前編)」 月に一回、いではくが飲み屋さんへ行って軽く酒とつまみをやりながらテーマに沿った話をする「酒と話」。第8回は赤坂にある小料理屋「お晩菜  ごんた」で『音楽作家から見た音楽出版社の問題点』について聞きました! 前後編に分けてお送りします。 「音楽出版社」とは、音楽著作物の管理・プロモーションなどを行う事業者である。 通常、メジャー流通でリリースされた楽曲に関しては、作家(作詞家、作曲家)と音楽出版社との間で契約(著作権譲渡契約)が締結される。 音楽出版社は、窓口業務として、作家と契約した楽曲の管理・プロモーションを行い、得られた著作権使用料から契約で取り決めた比率に従って、印税として作詞家、作曲家に分配する。 例えば、契約の分配比率が音楽出版33%、作詞家33%、作曲家33%の場合、著作権使用料が99円であれば、音楽出版社の取り分33円を差し引き、作詞家に33円、作曲家に33円が分配される。 現在、日本にはレコード会社系列、芸能プロダクション系列、放送局系列とさまざまな音楽出版社*がある。 印税の分配率  終戦後、アメリカのシステムを当時の渡辺プロがいち早く目をつけて、日本に導入したのが日本における音楽出版の始まりだったと思う。  それまではレコード会社が専属作家制をとっていたんで、レコード会社は作家と直接契約してて、プロモーションとかも全部レコード会社自ら行っていたの。専属だから他のレコード会社と仕事はできないんだけど、レコード1枚売れたら、⚪︎円払います、みたいな契約をレコード会社と作家でしてた。  そんな中、初めて渡辺プロが、フリーの作家の「楽曲」を預かって、それをプロモーションをする音楽出版部門というのを立ち上げた。音楽出版はプロモーション費用として作家の著作権印税の何割かをもらう、という新しいシステムを作ったの。つまり作家と契約するんじゃなくて、作家の作った曲と契約するシステムを作ったわけ。  ってことで、音楽出版ができてからは、著作権印税を作詞家、作曲家、音楽出版社の3者で分けるようになった。そうすると音楽出版社が歌を売るためにどのくらい尽力してくれるかなんかによって印税の取り分のパーセンテージの割合が変わってくる。結果、力のない新人の作家はプロ...

Vol.07 師匠 遠藤実(後編)

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酒と話 Vol.07「師匠 遠藤実(後編)」 月に一回、いではくが飲み屋さんへ行って軽く酒とつまみをやりながらテーマに沿った話をする 「酒と話」。第7回は、前回に続き『師匠 遠藤実』の後編をお楽しみください! 29歳の時に遠藤実(作曲家)の秘書となって以来、氏が2008年に亡くなるまでの37年間、秘書として、作詞家として付き合ってきた いではく。昭和を代表する作曲家との思い出などを語ってもらいました。 作曲家・遠藤実  遠藤先生はやっぱり"天才"としか言いようがない。決して他の人が書いたようなメロディーを書かないし、必ず歌のどこかに自分独自のフレーズを入れ込んでくる。なんというか、常に目新しさを本人も意識していたんだろうね。だからメロディーに変拍子を多く使っているということもあるけど、やっぱりそういう所にも自分の特徴を出そうという意識もあったのかもしれない。  だから、なんつーかな、詞にも新しいものを求めてた。俺に対しても「人が今まで使ったようなフレーズで歌を書いてくるな」と、常に新しい感覚の歌を求めてたからねぇ。  遠藤先生とは作曲家、作詞家のコンビでずいぶん一緒に作品を作ってきたけど、そういう新しい感覚だったり、表現だったりを自分の中に意識するように仕込んでくれた。そういう面ではありがたかったという風に思うよね。  中澤卓也さんの「彼岸花の咲く頃 * 」の歌詞で、赤い彼岸花を線香花火に見立てたんだけど、これなんかはまさに新しい発想だったり表現を、というのが常に意識にあるからこそ出てきたんで、やっぱり先生の教えが今でも生きているんだなぁと感じるよね。  先生が亡くなるまで本当にずっと一緒に仕事をしてきた。晩年は、コンビで歌を作ることは少なくなっていたけど、(遠藤実歌謡音楽振興)財団でやる仕事も手伝ってたんで、生涯ビッタリ付き合っていたね。マネージメントの仕事を離れても、さっき言ったみたいに歌や財団の仕事はあったから、先生と知り合って亡くなるまでの37年間、ずっと一緒だった。  そういったお付き合いをしてきた中でやっぱり思うことは、先生は本当に死ぬまで歌っていうものを追求していた。で、そういうのを目の当たりにしてきて...

Vol.06 師匠 遠藤実(前編)

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酒と話 Vol.06「師匠 遠藤実(前編)」 月に一回、いではくが飲み屋さんで軽く酒とつまみをやりながらテーマに沿った話をする 「酒と話」。第6回は、いま何かと話題の「スシロー」(荻窪店)で『師匠 遠藤実』について聞きました! 29歳の時に遠藤実*(作曲家)の秘書となって以来、氏が2008年に亡くなるまでの37 年間、秘書として、作詞家として付き合ってきた いではく。昭和を代表する作曲家との思い出などを語ってもらいました。 秘書として  遠藤先生んとこに秘書役で入って、作詞家としてヒット曲が出てからは、作詞の仕事半分、マネージメントの仕事半分って感じの比率でずーっと一緒にやってきた。  歌の仕事はもちろんだけど、先生は話もうまかったから講演の仕事もすごく多かっ た。一番多い時で年間36回くらい地方へ講演しに行ったからね。もちろん俺も秘書だから一緒に行くわけ。で、講演が終わるとそこに泊まるから、夜になると主催者が宴会をやってもてなしてくれるの。すると酒が出てくるんだけど、先生は下戸だから、全部俺が(すすめられた酒を)飲むわけ。だからあの当時はホントに酒を飲んだ。というか飲まされた(笑)  それから、ふるさと創生*ってのが昔あって、国から配られたお金で歌(ご当地ソング)を作るところも結構あったりして、いろんな市区町村に行くことも多かったね。  そんなこともあって、おかげさまで日本全国行ってない県は一つもない。そういう面では各県の特色というのもよく分かったし、当然、その土地の美味しいものや酒を味わせてもらったよね。だから、先生の秘書をやってたおかげで人があんまり経験してないようなことを経験させてもらったし、よかったなぁと思ってる。 秘書を辞めたのはいつ?  俺は50歳になったら辞めて作詞活動一本にしようかな、と思ってたんだけど、その前に遠藤先生の奥さんが亡くなってしまった。そのことがきっかけで先生の将来、つまり亡くなった時のことを考えるようになった。まず、相続で揉めるようなことになれば結果的に先生の名前に傷もつくし、そういう風にならないようにするには印税の受益者として財団法人を作った方がいいと考えて、遠藤実歌謡音楽振興財団*を設立したの。  でも、...